N検イベント

今、中高生に求める「時事力」
立教大学 社会学部メディア社会学科 成田康昭 教授

 本日の話のキーワードは、「ニュースは共通言語である」ということです。大学での「時事問題」の取り扱い方は、あるテーマ自体について深め展開させていくというよりも、大学教育にとっての一番のベースという位置付けです。そうしたお話をお伝えできればと思っています。

■ニュース検定を求めた理由

 メディア社会学科は2006年4月に立ち上がり、今年の3月に1期生を送り出しました。当初、学科名からして集まる学生は当然のことながら新聞を読んでいるものと思っていましたが、新入生ガイダンスで170名弱の学生に「毎日、新聞を読んでいる人?」と聞くと、手を挙げたのはなんと2人。以来、新聞を読ませることは非常に大きな課題になりました。何かにつけて、新聞を読みなさい、読まなければ何もはじまらないのだ、と一生懸命言うのですが、学生は本当に読みません。そんな状況の中で出会ったのがN検でした。「ひとつの勉強として」であれば学生も新聞を読むのではないかと考えて実施を決め、メディア企業へのインターンシップやゼミの選抜の際に検定結果を重視するなどの仕組みを作って受検を勧めました。N検自体は回を追うごとに受検者も順調に増えて非常に結構なのですが、今のところ本校での受検者は思うように伸びていっているとはいえず、まだ課題は山積しています。学生には、自分は社会とどういう接点を持っているのか、そこで自分に何ができるのか、ということを知る一つのベースとして新聞を手にとって欲しいのですが、どうしたら読んでくれるか、引き続き日々考え続けています。彼らはエンターテイメント系のメディアには良く反応し、ツイッターやミクシーには何時間でも費やしますが、新聞は読んでも30分以内、といったところです。ジャーナリズムをどういう風に捉えるのか、きちんと学生に身につけさせることが大変大きな課題になっています。

■現在の社会を語る「地」―キャンバスとしての新聞

 「新聞を読んで欲しい」とここまで言うのは、新聞を「キャンバス」として捉えているからです。社会科学・文化科学系学部は社会で起こっていることを説明する学問をするところですが、学生はまず社会で何が起きているかを知りません。「これはこういうことなんだよ」と説いたら「なるほどそういうことか」と理解してもらわなくてはいけないのに、その事象自体が初耳なので説明されても「ふーん」という反応になります。もちろんそのまま終わらせてはいけないので学生も一生懸命勉強するのですが、試験が終われば忘れる、という風になってしまいます。要するに、今の学生は(日本中の学生についてよく言われることですが)、恐ろしいほど社会に関心がない、社会というものが見えていない、という状況があるのです。そのような中で、ベースとなる「地」の部分、教えるための「地」の部分をどのようにしたら作れるのか。そこにはやはり新聞というメディアは欠かせないと私は思っています。現在の社会に対する認識を持つために、まずもって新聞を読む必要性があると考えています。

 お話しするのは簡単ですが、実際、大学ではこの問題は本当に深刻です。例えば、卒業を迎える学生が「経済学部というところに在籍して四年間を過ごしたが、一体何を学んだのだろうと思ってしまう」などというケースがあります。確かに数々の試験を通って大学は出たけれど、どこでどんな仕掛けがどういう風に働いて今の社会が動いているのかという点を理解をしていないという状態です。大変多いこのケースをどうにかなくし、本来の大学教育を施していかなくてはいけません。これがまず大きなポイントだと思います。

■就活で問われる「地」の部分

 「地」の部分の有無は、就職活動の場面でも結果を左右します。私はキャリアセンター部長という仕事を兼任しているのですが、就職試験の面接で学生がよく失敗するパターンとして、志望動機や得意なことを聞かれた際にとにかく自分のことを語る、というものがあります。胸に手を当てて一生懸命自分のことを語ろうとするのです。しかし結局それは、相手と同じベース、同じ土俵の上に立って話ができているわけではないので、自分で自分に語りかけているようなものなのですね。そのため全然話が噛み合わず、面接を突破できない、という結末です。採用担当者と自分が一つの同じ土俵、つまり現代の社会の上に立っているんだという認識を持たなくてはいけません。「今こういうことがありますよね、それについて私はこう考えて、こうしたいと思っているんです」という言葉が出てくれば、話は噛み合ってきます。そこから「ではこれについてはどうするの?」と聞かれ、「こう思います」「そこまで考えていませんでした」、と実のあるやりとりが成立します。ですが、そこまでいかない学生も多いのです。もちろん「シュウカツの攻略法」としてそんなことをしても仕方がなく、もっともっと前提の部分で、「現在の社会を自分の体で捉える」ということをしておかなくては、当然ダメなわけです。

■専門教科の学びにも必須

 また、もちろん専門教科の学びにおいても「地」は至って重要といえます。例えば、社会学部で必ず教えることのなかにマックス・ウェーバーの説く「近代における官僚制の理論」があります。官僚制とはこういうものなんだよ、そして今様々な場面で官僚制からネットワーク社会へと変容しつつあるよ、というようなことを教えるわけですが、なかなかそれが身に入っていきません。もし、NPO活動などが活発化していることを肌で知っていれば、「例えば役所からNPOの人の動き方に変化しているんだな」となりますが、そういう理解が持てません。金融論でも同じです。「不良債権」「デリバティブ」といったことをいくら学んでも、実際に金融の動きを知らないので、単なる概念と定義の問題でしかなくなってしまうのです。

■社会の変容と共に学ぶ

 これは先月(7月)29日の毎日新聞の記事です。秋葉原無差別殺人の加藤被告が、同日始まった被告人質問で、自分が事件を起こした動機はインターネットの掲示板を荒らされて事件を起こさないと居場所がなくなると思ったことであって、派遣切りにあったこととは関係ないと言っている、という内容です。実際には、公判のなかで情状酌量されるためには派遣先に恨みがあると言ったほうが絶対有利なはずですし、弁護団はそういう風に進めたようですが、本人はそうではないと言い張っている。この事件は雇用不安の絡みで議論されることが多かったのですが、ネット社会の中でのアイデンティティの問題という新しい大きな問題を提起しているということが見えてきたわけです。こういう風に、事象への「切り口」は日々新たなものにどんどん更新されていきます。それを捉えて変化の中で学んでいかないと、何も役に立ちません。

 社会は今大変な勢いで変わっており、「知の地殻変動」が起きています。臓器移植、遺伝子組み換え、尊厳死、サイボーグ、、、。今までの枠組みでは議論のしようがないものがどんどん出てきています。社会科学はそれぞれの理論を持ってそこに挑むわけですが、そのベースになる「状態」がどんどん変わっていくので、それまで蓄積してきた理論がその瞬間に無効になってしまうということがよくあります。また同じく、「社会の地殻変動」も起きています。例えば、「デジタル社会化」ということに関して言えば、インターネットが展開していく中でマスメディアを中心とする一方向型の固定化したメディアに限界がきている。では、そうではないコミュニケーションとはどんなものであるべきなのか。わからない。そうした状況下で考えていかなくてはいけないのが今の「知」のあり方です。ある一定の基本書に従うのではなく、変化の上に立って考えていかなくてはならないし、また前提の変化を含みこんで議論を進めていかなくてはいけない。固定した社会像を相手に勉強するのではなく、変動し続ける社会を捉えながら、それをどう説明し、どう予見し、どう制御できるか、という水準で勉強しなければ、大学での学問は役に立たないのです。

■中高生に求める「時事力」

 私が高校に入った1965年頃、ベトナム戦争が起きていました。ベトナム戦争ってなんだろう、とやみくもに新聞記事を切り抜き始めたところ、戦争はどんどん展開していき、切り抜きもどんどん溜まっていきました。戦況の記事の書式は意外に単純で、いつどこでどんな戦闘があって何人怪我して何人死んだ、といった形が多いのですが、そうした記事がどんどん山になっていきました。自分は何をやっているんだろう、と思いながら切り抜きの山を見ていたとき、ハタと気付いたのです。あ、人が死んでいるんだ、と。もっと言うと、その新聞記事が死体に見えてきたのです。単なる記事で「死者○人」ということではなく、ここに死者がいるんだ、これは大変なことだ、とはじめて気付きました。それから私は反戦運動に進んだりもしました。やはりこうした「気付き」がとても大事なことだと感じています。データ情報だけを捉えるのではなく、体を動かすことが重要です。「知というのは、骨の折れる仕事だ」。学部の学生には必ずこう言っています。中高生にも、そういうところを学ばせていただけると、とても良いのではと思います。

 また、本校の推薦入試では面接を重視していますが、その際受験生に求めることは、結局のところ大学教育でも日々の悩みとなる「社会を知らない状態」を脱することです。半径5メートルの世界で生き、内輪の言葉でしか自分を表現できずコミュニケーションが成り立たない、ということでは困るので、私達はそうでない子を一生懸命探そうとしています。面接では必ず志望動機を問うのですが、大学案内や学部案内を読んでリピートするだけで、自分の言葉で語れない受験生が非常に多いです。そこで「じゃあ、どういう風に考えてみたいの?」とひとつ踏み込んできくと、そこで固まってしまう。「その先は入ってから考えます。」などと答えて終了してしまいます。まれに、共通のテーマで、自分の言葉で話すことができる学生がいると、明日にでもうちのゼミに来て欲しい!と感動すら覚えます。こうした共通の言葉で話すためには、新聞もただ単に見ているだけではダメで、理解していなければなりません。それが出来ていれば、良い形の面接になりますし、小論文も意味のあるものになります。「こういう風に自分は考えている」と自分の言葉で語れるかどうか。ユニバーサルな言葉を自分で操作できるかどうかということが、重要なことだと考えています。